クリコヴォの戦い


掲示板で13世紀の兵器についての議論になってたんだけど、その中で1270年にチャガタイ家のバラクとフレグ家のアバカがホラーサーン地方で衝突した「クリコヴォの戦い」について書かれてました。要点を引用すると、

1270年にチャガタイ家のラクがフレグ家のアバカの治めていたホラーサーン地方に進攻した時、バラク軍の部将筆頭ジャライルタイに並んで活躍していた有力部将マルガウルという人物がクロスボウの矢で射られて戦死している。

この時、アバカ軍でクロスボウを持って居そうな部隊は、左翼の将軍のひとりとして参戦していたイラン総督アルグン・アカのもとにいたケルマーンのカラキタイ朝の第4代君主スルターン・ハッジャージュの率いる部隊と、同じくロレスターンを領有していたセルジューク朝系アタベク政権のひとつサルグル朝の当主アタベク・ユースフ・シャーの部隊が、個人的には怪しように思う。

アミール・マルガウルは最初の突撃でほどなくして射殺されたようなのだが、「左右から攻め寄せた」としか書いていなくてアバカの左翼、前衛、右翼のどこら辺で射られたのか良く分らない。

同じアバカの時代、1281年10月にアバカは自らシリアへ親征しているが、弟モンケテムル率いる右翼軍にグルジア人やアルメニア人の部隊が配されていたそうな。

元朝あたりの戦闘で歩兵部隊の動向とか何か記録が見られると比較出来て良いのだが・・

とのことです。チャガタイ家とフラグ家の抗争にケルマーンのカラキタイ朝とサルガル朝の軍も出動してたんですね。それにしてもケルマーンのカラキタイ朝のハッジャージュって何者だろうか?『元朝秘史』には出てこなかったと思うんだけどなあ。また課題が出来ました。