鎌倉源氏

-源頼朝

源義朝の三男。1159年、13歳で平治の乱で父に従い出陣するも平家に敗退、翌年捕縛され斬首されるところを平清盛の義母池禅尼の助命嘆願で伊豆・蛭ヶ小島に配流となった。以後北条・伊東氏の監視の下20年の雌伏の時を過ごすが、この期間に東国武士の実態を見聞した事が貴重な経験となり北条政子との結婚を通して北条氏を味方につけた事とあわせ後の武士政権の設立にあたり大いに役立つ事になる。

1180年4月に以仁王の令旨を受けた事が原因で平家から追求を受け、8月遂に平家討伐の兵を挙げて伊豆判官の山木兼隆を討つ。石橋山の戦で惨敗するも海路安房に脱出、千葉常胤平広常らの協力を得て鎌倉を中心に関東に一大勢力を確立。同年10月には富士川で平家に大勝、その後東国武士の意を汲んで鎌倉に戻り関東を平定。武士統制のため「侍所」「問注所」「公文所」を設け鎌倉政権の基礎を固めた。その間に平家は木曽義仲に京都を追われ西国で再起を図っていたが1184〜5年に朝廷の要請により弟の義経、範頼を西国に派兵し、義仲・平家を尽く滅亡させた。

その後朝廷に接近した義経を危険視し、同年11月義経討伐の軍を上京させその追捕を名目として守護・地頭の設置を朝廷に認めさせて支配権を全国に確立。1189年、奥州に亡命した義経藤原泰衡を脅迫して殺させた上で奥州征伐を行い奥州藤原氏を滅ぼし、1192年に後鳥羽天皇から征夷大将軍に任じられ鎌倉幕府を設立した。

その後は摂政藤原兼実と組み朝廷に対し協調路線をとるも1194年に兼実が失脚し朝廷内で反幕府勢力が強まり、その形勢挽回を果たす事無く1199年落馬がもとで死亡した。武家政権のシンボルとして武士の統御や朝廷との交渉に対し卓越した政治能力を発揮し東国武士に畏敬されたが、一方で厳格な統制を重んじるあまり功労者の平広常や忠実な弟・範頼らを誅殺し独裁傾向を強めた事は朝廷への協調対策共々彼らの不満を生じさせた。その結果として源氏は孤立し頼朝の死後僅か20年で滅亡、その政権は皮肉にも平家の傍流・北条氏に引き継がれる事となった。

鎌倉幕府の第2代将軍。源頼朝の長男。母は北条政子

頼朝の嫡子として武技に優れた青年武将として成長。1199年、父の死後家督を継ぎ、1202年、正三位征夷大将軍。鎌倉殿継承直後、北条氏によって訴訟の親裁を停止され、幕政の実権を北条時政以下13名の宿老会議に奪われた。比企能員の女若狭局との間に一幡が生まれ、比企氏が将軍外戚の地位に立ったため、時政がこれを警戒し、建仁3年8月、頼家の急病に降し、頼家死後に一幡と、頼朝の第2子千幡(実朝)とに諸国地頭職を分譲する案(権力の分轄)を出し、両者の対立を激化させた。その年の9月、比企一族は北条氏に攻められ、一幡とともに滅亡したが、このことを知った頼家は和田義盛仁田忠常に時政追討を命じた。しかし義盛はこれを時政に告知し、忠常は時政によって誅殺された。孤立した頼家は出家落飾を強いられ、同月29日に伊豆修禅寺静岡県田方郡修善寺町)に幽閉されたが、翌元久元年(1204)7月18日、北条氏の討手により殺された。

  • 一幡

鎌倉幕府二代将軍・源頼家の嫡男。母は比企能員の娘・若狭局建仁三年(1203)、頼家が病となって一幡に関東28カ国の地頭職と守護職が譲られることになる。ところが北条を後ろ盾とする千幡(実朝)には関西38カ国の地頭職が譲られることになり、比企能員北条時政が対立し、比企能員は時政邸で殺害された。比企邸にも北条の兵が押し寄せ、幼い一幡は母・若狭局とともに、火に包まれて短い生涯を閉じた。

鎌倉初期の鶴岡八幡宮別当鎌倉幕府第二代将軍・源頼家の次男。母は源為朝の孫娘で比企能員の娘。元久元年(1204)7月、父・源頼家が伊豆・修善寺で殺害された後、法名公暁と称し、別当となる。父の死が叔父の源実朝や北条氏の陰謀によるものと考え、復讐の機会を窺がっていた。永久元年(1219)正月27日夜、右大臣就任の拝賀の為、鶴岡八幡宮に参詣した源実朝が退出する際、剣で殺害した。その後、北条義時の命で長尾定景に鶴岡の後ろの山で討たれた。この背後には北条義時の煽動があったとする説が有力である。

鎌倉幕府の第三代征夷大将軍である。官位は征夷大将軍右大臣正二位左近衛大将・左馬寮御監。

鎌倉幕府を開いた源頼朝の子として生まれ、兄の源頼家が追放されると十二歳で征夷大将軍に就く。政治は始め執権を務める北条氏などが主に執ったが、成長するにつれ関与を深めた。官位の昇進も早く武士として初めて右大臣に任ぜられるが、その翌年に鶴岡八幡宮で頼家の子公暁に襲われ落命した。子は残さず源氏の将軍は実朝で絶えた。

歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選ばれている。家集として金槐和歌集がある。

源義朝の子。蒲御厨(浜松市)の生まれである事より蒲冠者と呼ばれた。

頼朝の挙兵すると間もなくこれに従い、1183年に源氏総帥の一人として西上、翌1184年、弟・義経に追われた木曽義仲近江国粟津で討ち果たした。その後は平家討伐に向かい一の谷で勝利、この功績により頼朝の奏請で従五位三河守に任じられた。従順な範頼は組織を重んじる頼朝よって独断専行の観がある義経より重用され、その後も源氏総帥として山陽を経て九州に転戦するが苦戦が続き結局は義経の大功に霞んでしまう。

義経の横死後は頼朝に対し一層恭順になっていたが、1193年、曽我兄弟の仇討事件の後で謀反の嫌疑を受け修善寺に幽閉され、間もなく殺された。仇討事件にて頼朝死亡の誤報が鎌倉に伝わり、この時留守を守った範頼の周囲を安心させる為の言動が反って頼朝の疑心を招いたのである。

平安時代末期の僧。源義朝の七男。母は常盤御前。幼名・今若丸。義円、義経は同母弟、廊御方は異父妹、一条能成は異父弟にあたる。

平治の乱で父義朝が平清盛と戦って敗れて殺されたため、幼くして醍醐寺にて出家させられ、隆超(または隆起)と名乗る。ほどなく全成と改名し、「醍醐禅師」あるいは「悪禅師」と呼ばれた。

治承4年、以仁王の令旨を受けて異母兄の源頼朝が挙兵すると、京を抜け出しその麾下に入る。武蔵国長尾寺を与えられ、北条政子の妹・保子(阿波局)と結婚。保子は頼朝の次男千幡丸(後の実朝)の乳母となり、以降頼朝政権において、地味ながら着実な地位を築いた。

しかし、正治元年1199年に頼朝が死去し、甥・頼家が将軍職を継ぐと、全成は妻の父北条時政・その子義時と結んで頼家一派と対立するようになる。建仁3年(1203年)5月19日、先手を打った頼家は武田信光を派遣して全成を逮捕。全成は5月25日に常陸国に配流され、6月23日、頼家の下知を受けた八田知家によって斬られた。享年51。

武家としての阿野氏は全成の四男・時元の系統に受け継がれる。また全成の娘は藤原北家魚名流の藤原公佐と結婚しており、その子実直が公家としての阿野家の祖となっている。後醍醐天皇の寵愛を受け、後村上天皇の母となった阿野廉子はその末裔である。

北条政子 (文春文庫)

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