チベット年表

最近、忙しくてシナリオ作成が進んでませんが、一段落したら一気に進めたいと思います。

チベットの歴史については邦語文献が少なく、なかなか調べるのに苦労しているのですが、「チベット史年表」という素晴らしいサイトがあります。そこから、13世紀の年表だけを抜粋してみました。フレグがディグン派に施物を贈っていたことや、サキャの総督アクレンのことは初耳でした。

1207 ジンギス汗への朝貢決定
1227 ジンギス汗没。その後、朝貢停止したため、モンゴルとの関係悪化。カルマ派サキャ派の高僧たちがジンギス・カーン一党の宮廷に与えた影響は、モンゴル人を完全にラマ教に改宗させるまでにはいたらず。
1239 蒙古ゴダンの軍、ギェルラカンを炎上させる。モンゴル帝国第2代オゴデイ・ハーンの次男ゴデン、カム地方から中央チベットに攻め入り、名刹ギェルラカンを炎上させるなど猛威をふるう。これが、モンゴルがチベットに進攻した最初。ギェルラカン炎上について、1240年に同じ記述あり。
1240 クテン汗、チベット派兵。リジェとドルタ率いる三万の軍がラサの北方ペンポに達した。モンゴル軍はラデン僧院とギャル寺(ラカン)を焼いた。君主ラマ、ソトゥンと五百人の僧侶や一般人が殺害され、村や町は略奪された。
1244 サパン、クテン王子から最後通牒とも言える招聘状を受けとり、ココノールへ向けて出発。サパン、チベットを代表して西涼へ。
1247 サパン、モンゴル朝廷着(=クテンに服従)。
1251 クテン汗、チベット派兵。サパン、パクパに宗教的権威を譲り渡し、70歳で蘭州にて没。
1251 サキャ派支配始まる(〜1358年)。以降1642年までチベットは仏教諸派と結んだ世俗貴族によって支配される。
1253 フビライ、ココノールを支配下に収め、パクパ招聘。
1254 フビライ、パクパに至上の権利を承認する勅書を授ける。
1256 カルマ・パクシ、モンケ汗のラマとなる。
1260 フビライ汗即位。サキャパクパ、国師となる。フビライ、汗に。パクパに即位式を依頼。フビライとアリク・ブガ兄弟が同時に即位。モンゴル帝国が分裂。
1264 アリク・ブガがフビライに降る
1265 パクパ、子供時代以来のチベットへ。
1267 パクパ、汗よりモンゴル宮廷に戻るよう求められ、モンゴルへ。フレグ、ディグン派に施物を贈る。
1270 パクパ、モンゴル到着。モンゴル語用に公案した文字を献呈。パクパ、元朝の帝師となる。
1274 パクパ帰蔵に際し、汗が何ヶ月も同行。盛大に送別の宴を催す。
1277 フビライ汗、南チベットを攻めさせる。
1280 パクパ、死の直前にフビライ汗に献上品と元朝樹立成功を祝する信書送付。パクパ没。毒殺の疑いがあり、汗は事態処理のため、巨大な軍勢を派遣
1282 サパンの甥チャクナとモンゴル王女との間の子、北京で帝師に任命。
1286 印蔵間を行き来していたヨーギ、ウギェン・センゲがブッダガヤの大塔修理に貢献。大塔の門の1つが「チベット門」と呼び習わされるようになった。フビライ汗、チベット経由でインド・ネパール攻撃を計画するが、後に放棄。
1287 サキャの総督アクレン、モンゴルの騎兵を含む大軍でディクン派を破る。
1290 フビライ軍、ディグン大僧院破壊。サキャの総督アクレン、ディクン派の本拠地を焼き、多くの僧侶を虐殺。プトゥン生まれる。
1295 フビライ汗没。フビライ汗没後、元朝の権威は弱まり、チベットにおけるサキャ派の権力も衰退。パクモ・ドゥ派が台頭