イスマーイール派


「イスマーイール派」という名称は『元朝秘史』にも出てきたので、そのまま深く考えずに使ってきた。そもそも「イスマーイール派」は別名を7イマーム派と言い、8世紀に起こったイスラムシーア派の一派。シーア派の第6代イマームジャアファル・サーディクの死後、その孫ムハンマド・イブン・イスマーイールが第7代イマームを継承して起こった。グノーシス的な神秘主義的教説を特徴とする。1094年、イスマーイールの死後、

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イスマーイール派
 ┣東方派
 ┣西方派
 ┗アラムート派(改革イスマーイール派とも)

というように3派に分裂している。モンゴル帝国との攻防戦でアラムート城で殲滅されたのは「アラムート派」ということになるのだろう。しかし混乱してしまうのはイスマーイール派の分派として「ニザール派」というのが出てくることだ。Wikipediaの「ニザール派」の項目を読んでみると、

ニザール派は、イスラム教のシーア派イスマーイール派の分派。1094年、ファーティマ朝のカリフ=イマーム位をめぐってイスマーイール派は二派に分裂したが、そのうちの一方がニザール派(もう一方はムスタアリー派)である。史料や現在の報道、学術的著作でも単にイスマーイール派としてムスタアリー派と一括して扱われることが多い。

ニザール派はハサニ・サッバーフの指導するイラン方面のイスマーイール派で支持を獲得。11世紀末から13世紀半ばまでシリア地方からホラーサーンに点在する城砦およびその周辺領域を保持し、イラン高原のアラムート城砦を中心に独立政権を打ち立てた。時に敵対するセルジューク朝や十字軍の要人を暗殺するという手段を用いたことから暗殺教団の別称が生まれ、のちに大麻吸引などと結びつけられて伝説化した(これについては暗殺教団を参照)。

と説明にある。つまり、「ニザール派」のことを一般的に「イスマーイール派」と呼んで差し支えないということだ。アラムート陥落後のニザール派の活動については、ルクン=アッディーン=フルシャーがモンゴル高原に没したあと、幼い息子(ないしは孫)シャムス=アッディーン=ムハンマドが継いでいる。1275年ころにニザール派はアラムートをごく一時的に奪還し、その後ダイラムやクーヒスターンにおいては独自の勢力を築くこともあった。

なお、このシャムス=アッディーン=ムハンマド(別名をザルドゥーズ、つまりゾロアスター)というのは、迫害から逃れるため、スーフィズムをよそおってアンジュダーンを拠点として活動したため、「アンジュダーン派」と呼ばれている。

ニザール派」はシリアでも活動を展開している。シリアのニザール派は、1165年ころからラシード=ウッディーン=スィナーンにより指導されている。シリア・ニザール派トリポリ伯レーモン2世(1152年没)やモンフェラート侯コンラート1世(コンラド)(1192年没)の暗殺に成功している。

さらにインドで展開した「ニザール派」も存在している。「パミール派」は、アラムート派が壊滅する直前にアムダリア川上流つまり現在のタジキスタンパミール高原およびその周辺に定着していた。パミール派の教長ピール=シャムスッディーン(?-1310)、ピール=サドルッディーン(?-1369)の名前も見つけることが出来た。