コデン王家

オゴタイの子コデンの系譜を調べてたんですが、ネットでは手に入らないみたいですね。参考文献としては、モンゴル帝国研究の大家の著作がありました。杉山正明「東西文献によるコデン王家の系譜」『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年、457-489頁(初出『史窓』47号、1991年)です。読んでみましょうかね。

モンゴル帝国と大元ウルス (東洋史研究叢刊)

モンゴル帝国と大元ウルス (東洋史研究叢刊)

コデン王家の祖コデンについてはWikipediaに以下のように書かれています。

コデン(Koden, 生没年不詳)は、モンゴル帝国の王族。漢字表記は闊端。名はクタン、ゴデン、ゴダンなどとも書かれる。

第2代大ハーン、オゴデイの次男で、チンギス・ハーンの孫、グユクの弟にあたる。父のオゴデイがハーンに即位した後、有力な後継者候補のひとりとみなされていたため、漢語ではしばしば「闊端太子」と呼ばれている。

オゴデイがハーンに即位したとき、末子相続の慣習に基づきオゴデイの弟でチンギスの四男であるトルイが帝国のモンゴル遊牧民群の大半の支配権を保持していたが、まもなくトルイが早世すると、オゴデイは次男のコデンにトルイの後裔に相伝されるべき領民のうち4個千人隊すなわち4千戸を割いてコデンに与え、涼州の平原から河西回廊東部にかけての西夏の故地(現在の甘粛省一帯)を勢力圏とさせた。これにより、コデンとその子孫は、アルタイ山脈西麓のジュンガリアに位置するオゴデイ・ウルスとは別に甘粛地方に遊牧民の政治体(ウルス)を形成することになり、その盟主は家祖コデンにちなんでコデン・アカ(Koden-Aqa, アカはモンゴル語で「兄」の意で、同族連合体の盟主を指す)と呼ばれる。

コデンの在世中、その支配圏は甘粛のみならず東の陝西、南のチベットにまで及んだ。1239年にはコデン率いるモンゴル軍はカム地方からチベットに侵攻し、中央チベットでは仏教寺院を焼くなど猛威をふるった。これに関連して、当時のチベットで豪族と結びついて各地に割拠した仏教教団のひとつ、サキャ派の教主サキャ・パンディタが新興のモンゴル帝国と繋がりを得るため、1247年にコデンの本拠地涼州に赴いてコデンと会見したことは、現代まで続くモンゴル人とチベット仏教の深い関係の端緒として非常に有名な事件である。

コデンの正確な没年は不明だが、サキャ・パンディタとの会見から間もなく、兄で第3代ハーンのグユクの急死(1248年)を見ることなく没したとされる。