三別抄

朝鮮半島の諸勢力について、配置がおかしいことに気がつきました。1189年のシナリオでは、スタート時点ですでに「三別抄」が一勢力として登場させてしまっています。しかし、「三別抄」が成立したのは崔忠献の子の崔瑀の代であり、1189年にはまだありません。「三別抄」設立の歴史イベントを組み込むのも良いですね。また、「三別抄」の構成要素である「左別抄」、「右別抄」、「神義軍」を登場させるつもりです。

そもそも、三別抄(朝:삼별초)は高麗王朝の軍事組織で、崔氏政権の私兵軍団から、高麗の正規軍に発展したものです。「別抄」とは精鋭部隊を意味し、初めは地方の反乱鎮圧のための臨時編成される組織であった。崔氏政権のもとで常設、拡大されて左別抄、右別抄のニ部隊となり、のちにモンゴルの捕虜から脱出した「神義軍」を加えて「三別抄」となりました

勢力を拡大したモンゴル帝国が高麗に貢納を要求するなど両国の関係が悪化し、1231年以降高麗侵攻が開始されましたが、1258年には林衍ら反対派の武臣とともに崔氏政権を打倒し、モンゴルへ降伏しました。

林衍らは降伏を不服とし、69年には国王元宗を廃して再び政権を掌握する。モンゴルは林衍討伐を名目に進軍し、林衍は三別抄らを動員して抵抗するが、その最中に死去、武臣政権は崩壊。三別抄に対しては元宗は解散を命じるが、1270年5月、三別抄将軍の裴仲孫、夜別抄の盧永禧らは宗室の承化江温を推戴し、江華島を本拠に独立。

6月、三別抄政権は西南の珍島に移る。1271年には日本の鎌倉幕府へ救援を求めたが、黙殺されている。三別抄の反乱は、珍島の三別抄は高麗の金方慶洪茶丘らモンゴルの連合軍に撃破され、金通精に率いられて耽羅済州島)に落ちるが、1273年に三別抄の乱は鎮圧されました(Wikipediaより)。

それから、「三別抄」について調べていたら、金重明著『三別抄耽羅戦記』というのがあるようです。猛烈に読んでみたいのですが入手できるのかと思って探してみたらありましたね。素晴らしいです。早速図書館に直行です。井上靖『風涛』と比べて読むのも面白そうです。さらに、三別抄が推戴した王族出身の承化侯王温の最期については、「三別抄 宮女ドムボン」と「珍島イヤギ」なんて逸話もありました。承化候王温の息子である王恒の名も見つけました。「三別抄」関連だけでもいくつかの歴史イベントが作れそうですね。

抗蒙の丘(オルム)―三別抄耽羅戦記

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風濤 (新潮文庫)

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