那須家


画像は屋島の戦いでの那須与一。与一の親族は良く分からないことが多いです。情報源がWikipediaなのは将来的に何とかしたいです。与一の兄弟は10人もいるのにもかかわらず、事跡が分かっているのは五男の資之だったりします。

那須資隆(生没年不詳)
那須氏初代当主。太郎。須藤宗資(那須武者所)の子。屋島の戦いで活躍した那須与一の父。他に光隆(太郎)・泰隆・幹隆・久隆・資之(之隆)(五郎)・実隆・満隆・義隆・朝隆・為隆(十郎)らの子がいる。四代当主那須頼資もこの資隆の庶子であったとされることもある。

那須与一(1169年?-没年不詳)
平安時代末期の武将。系図上は那須氏二代当主と伝えられる。父は那須資隆(太郎)。妻は新田義重の娘。一般的には本名は那須宗隆平家物語では宗高)と紹介されることも多いが、これは初名であり、当主に就任後は父と同名の資隆と名乗ったと伝えられる。

那須資之(生没年不詳)
那須氏三代当主。初代那須資隆の五男。福原資広・女子(那須頼資妻)の父。那須光資の祖父。初名、之隆。通称、五郎。那須与一は、弟に当たる。治承・寿永の乱の際は、平氏方に味方したため、那須氏本家は源氏方に味方した弟の与一(宗隆、のち資隆)が継いだ。与一が子がないまま出家したため、資之が那須氏の跡を継いで当主となった。彼の実子資広は兄の福原久隆の養子となっていたため跡継ぎがなく、継承時期は不明だが那須頼資(宇都宮朝綱の子、または初代資隆と朝綱娘との庶子)に娘を娶わせて跡を継がせている。

那須頼資(生没年不詳)
平安時代末期から鎌倉時代の武将で下野那須氏第4代当主。実父は宇都宮朝綱で第3代当主那須資之の養子とされるが、初代当主那須資隆(太郎)と朝綱娘との庶子那須小太郎宗高)とする説もある。第5代当主那須光資らの父。肥前守。初名は資頼だが、源頼朝から一字を与えられて頼資と名乗ったという。のちに頼朝が建久4年(1193年)に那須へ巻狩に出かけた際には既に当主は子の光資となっていたと伝わっていることから、系図通りの順番(資隆(太郎)→資隆(与一)→資之→頼資)に継承があったと仮定するならば当主として活動した時期は短期間であったと推測される。

那須光資
第4代那須頼資の子。頼資の後を継ぐ。

那須資長
第4代那須頼資の子。のちの那須七騎伊王野氏の祖。